中国文学作品-西遊記

中国文学作品-西遊記

投稿記事by admin » 2014年6月22日(日) 10:32 am

 『西遊記』は、中国で16世紀の明の時代に大成した伝奇小説で、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語。全100回で中国四大奇書に数えられる。

 著者は、『淮安府史』(明、天啓年間成立)に、呉承恩(1504年頃 - 1582年頃、江蘇省出身)の著書として「西遊記」という書名が記述されていることから、かれが作者であると20世紀の中国では定説化していたが、後述のように批判的な説が存在し、明確な結論は21世紀初頭ではまだでていない。詳しくは後述。

 唐の時代にインドへ渡り仏教の経典を持ち帰った玄奘三蔵の長年の旅を記した地誌『大唐西域記』を基に、道教、仏教の天界に仙界、神や龍や妖怪や仙人など、虚実が入り乱れる一大伝奇小説であり、物語の縦軸に玄奘三蔵の波乱の人生を、横軸に無敵の仙猿・孫悟空の活躍を置き、玄奘三蔵一行が天竺を目指し取経を果たすまでを描いている。 なお人間の登場人物には玄奘三蔵や唐の太宗皇帝など実在の人物が顔を並べるが、書かれている内容は完全にフィクションであり、史実とは一致しない。

 中国で16世紀の明の時代に大成した伝奇小説で、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語。著者は呉承恩。唐の時代にインドへ渡り仏教の経典を持ち帰った玄奘三蔵の長年の旅を記した地誌「大唐西域記」を基に、道教、仏教の天界に仙界、神や龍や妖怪や仙人など、虚実が入り乱れる一大伝奇小説であり、物語の縦軸に玄奘三蔵の波乱の人生を、横軸に無敵の仙猿・孫悟空の活躍を置き、玄奘三蔵一行が天竺を目指し取経を果たすまでを描いている。


大鬧天宮 (だいどうてんぐう)
 
孫悟空大いに天宮をさわがす
 東勝神洲(とうしょうしんしゅう)傲来国(ごうらいこく)花果山(かかざん)の仙石から天地の霊気を纏った石猿が誕生する。猿は途轍もない度胸の持ち主で、山奥の滝壺にて洞天福地・水簾洞(すいれんどう)を発見した功により、花果山の周辺の猿を従えて王となり、美猴王と名乗る。ある時、美猴王はこの世の森羅万象について考えていくうち、生きとし生ける物の生死に悲観し、不老不死を願うようになり、西牛貨洲霊台方寸山まで仙術を身につけに行く。師匠・菩提祖師から孫悟空という法名を授かり、七十二般の術を身につけるがまだ満たされず、とうとう四大竜王の竜宮ひいては天界にまで殴り込みに行き、天界を統べる玉帝より弼馬温(ひつばおん)の位を授かる。当初悟空は弼馬温の実態も知らず喜んでいたが、後に弼馬温が只の馬飼いと知るや否や忽ち激怒し、自ら斉天大聖と名乗り、哪吒太子や顕聖二郎真君相手に天界で大暴れする。西王母の蟠桃を食らい、太上老君の金丹を平らげ、罰として八卦炉に入れられるも、悟空は「銅筋鐵骨 火眼金睛」の不死身の体となって生きのび飛び出した。遂には釈迦如来と「俺は地の果てまでも飛んでいってみせる」と賭けをする。地の果てらしき場所に立っていた5本の柱に到達したしるしとして悟空は一筆書き、柱に小便を引っかけて得意となって戻ってくるものの、実は釈迦の両手のなかをぐるりと周回しただけであった。釈迦が示した手に自分の署名を見て呆然とした悟空はその場を逃げようとしたものの、あっという間に五行山の下敷きにされてしまった。


 三蔵が取経に出るまで
 
悟空が五行山の下敷きにされてから五百年の時が流れた。時は唐代、太宗の御世であった。太宗は一時病の為に死んで地獄を巡ったが、冥土の高官達の目溢しにより再び現世で黄泉帰った。やがて太宗が閻魔の言い付け通りに水陸大会を催し、その時後に取経の僧に選ばれる玄奘を見出す。所変わって天界では観世音菩薩が弟子・恵岸と共に下界へ降り立ち、悟空を含む諸々の罪人達にある取り引きをした。天界にて罪を犯していたのは悟空だけではなかった。その罪人達とは、天の川の水軍を統べる天蓬元帥であったが月の女神・嫦娥を誑かした為に天界を追われ妖仙と化して深山にて暴れていた猪八戒、天界の軍人であった捲簾大将が天界の宝である玻璃の器を壊して天界を追われ流沙河にて人を喰らう妖仙となった沙悟浄、そして父竜王の竜宮で宝珠を焼き死罪を言い渡されその間中空に逆さ吊りにされて苦しんでいた西海竜王敖閨の子・玉龍である。観音は銘々にいつか現れる取経の僧と共に天竺へ参り、贖罪を果たすことを約束させる。功によっては彼らを仏にしてもいいということを条件に・・・。その取経の僧こそがあらゆる経典を学び、人徳に優れ、多くの人々から聖僧と敬われていた玄奘三蔵であった。彼もまたかつて釈迦の二番弟子(金蝉子)であったのにも拘らず、釈迦の説法を侮った故に罰として下界に転生させられていた。やがて貞観13年9月3日(639年)、三蔵は太宗と菩薩の命で天竺へ行くことを決意し、菩薩から教えられた己に従いし弟子達を探して旅立ったのだった。最初に三蔵は五行山にて悟空を助け出し、続いて鷹愁澗にて玉龍を導き、更に高老荘にて八戒を、最後に流沙河にて悟浄を弟子にしたのだった。


旅の途中での妖仙との戦い
 
贖罪の旅をする三蔵一行は天界が用意した八十一の難と対峙する。三蔵の袈裟(けさ)が黒熊怪に奪われる、三蔵が黄風大王に攫われる、太上老君(老子)の炉の番人の金角・銀角大王と戦う、牛魔王の子・紅孩児と争う、観世音菩薩が飼っていた金魚が逃げ出した霊感大王と戦う、太上老君の乗用牛の獨角兕大王と戦う、西梁女人国という女だらけの国で心ならずも三蔵と八戒が子を孕む(無論後に堕胎した)、三蔵が釈迦如来を刺した蠍の精に誘惑される、火焔山で悟空が紅孩児の母・羅刹女に芭蕉扇で吹き飛ばされる、その夫にして紅孩児の父・牛魔王と対決する、朱紫国で観世音菩薩の乗用金毛毛孔の賽太歳大王と戦う、獅駝嶺で文殊菩薩の乗用去勢青獅子の一大王・普賢菩薩乗用黄牙白象の二大王・大鵬金翅鵰の三大王と戦う、小子城で寿星(南極星)の乗用の鹿である比丘国国丈と対決する、鎮海寺で哪吒太子(なたたいし)を兄と慕う地湧夫人(正体はネズミ)と戦う・・・など数多の苦難が一行を待っていた。


西天取経
  
旅の終盤、とうとう天竺に辿り着いた一行。底のない渡し舟で川を渡る。その時上流から三蔵の抜け殻である死体が流れてきて、三蔵は凡体を脱することができたと喜ぶ。その後釈迦と謁見、経典を授かるもそれは無字の経典だった。新たに字のある経典を授かるが、旅の日数と経典の数が八つ合わない為、一行は雲に乗せられて8日間のうちに東土から西天へ帰ってくるように命じられる。観世音菩薩が三蔵の災難簿を見るとあと一難足りないとある。そこで雲から落とされる一行。通天河に落ちた後、経典を乾かすが紙が岩にくっ付き、1字はがれてしまう。長安に戻って太宗皇帝と謁見する一行。経典を渡し、雁塔寺に納めると八大金剛が現れて一行を連れ去っていった。その後西天にて釈迦に称賛の言葉をかけられ、遂に五人は罪を許され、三蔵は旃檀功徳仏(せんだんくどくぶつ)、悟空は闘戦勝仏(とうせんしょうぶつ)、八戒は浄壇使者(じょうだんししゃ)、悟浄は金身羅漢(こんしんらかん)、玉龍は八部天竜(はちぶてんりゅう)と成る。悟空の頭からはいつの間にか緊箍の輪が消えていた。

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登録日時: 2014年3月26日(水) 3:44 pm

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